田舎街にある大きめの温泉施設、ど平日の3時頃、私は10人ほどのおっさんに囲まれてサウナに入っていた。
私は勤め先を有給でサボって2時間ほどサウナに入りにきている、しかし、、、彼らは一体何なのだろうか?
サウナに入り、出た瞬間に、鬼のように頭からかけ水をし、水風呂に入る人もいれば、そのままサウナに戻る人もいる。
いずれにしても、一生懸命にサウナを楽しんでいる。
日曜日のとある地方競馬場、競馬場の駐車場には大量の車が停まっている、止める場所を探すほどの混雑ぶりだ。
車を降りて競馬場に向かうと、そこにいたのは当然ながら、
大量のおっさんとおじじ
競馬場は寒い、ものすごく着込んだ人たちが競馬新聞を片手に一生懸命予想をし、馬券を買い、レースが始まる頃になるとわらわらと施設から外に出てきて、お決まりのタバコを吸いながらレースを観戦し、お馬さんたちにエール?怒号?を送る。
レースが終わると、建屋に戻り、また新聞に向き合う、まさに一生懸命生きてる。
日曜日の競艇場も同じだ、大量の車と大量のおじさんと、大量のおじさんの飲んだ後の紙コップと出走表がそのへんに落ちている。
彼らは一生懸命にゴミを撒き散らかしている。
おっさんやおじさん、爺さんが平日のサウナや休日の公営ギャンブルに集まるのはなぜか、他にすることがないからだ。
昔有名な大学教授がテレビで言っていた。
「男はおっさんになると存在価値がない」
と、子孫を残すための種を撒き散らした後は、おっさんにやれることはない、あるとすれば子供のためにせっせとお金を運んでくることだが、定年も過ぎると子供も独立してお金もいらなくなるだろう、そして役割を終えていく。
本来ならば、長老としての知識を広く一族に伝えていく、などという役割があるはずだが、今や誰もおじじの戯言に付き合ってくれるわけではない。
そうして、おじじたちは1人でサウナに行き、1人でギャンブルと戯れる。
人間は社会的な生き物で1人では生きられない、おじじも1人では生きられない、1人で生きているようで、サウナという誰かの運営する施設にお金を落とし、公営ギャンブルという公共機関が運営する施設にお金を落としている。
こうして、おじじも立派に社会の一員として役に立ち、関わっている、たとえ身寄りがいなくとも、家族から厄介払いされていたとしても。。
こうして一生懸命に楽しんでいるかどうかはしらんが、社会と関わっているおっさん、おじじを見て思う。
もっと一生懸命に生きよう
と、私もほぼほぼおじじに両足を突っ込んだ状態の年齢だが、私はそれなりに幸せかもしれん、このように誰も見はしないとしても独り言を発散する場がある。
おっさん達の中にはネットにつながっていない人もいる、それはそれで幸せだ、現代の若者はネットに繋がったが故にさらに孤独を感じるように出来上がってしまった側面もある。
ネットにつながっていないならば、自分の半径何メートルかの範囲で生きていく事ができ、その周りに誰かがいれば孤独ではない、それこそ競馬場に行けば仲間がいる、なんて状態であれば孤独ではないだろう。
生きてるだけで社会に影響を及ぼしている、少しだけ頑張ってコンビニでバイトでもしたならば、地方の人材不足の解消にもなる。
まだまだやれることはたくさんある、絶望するにはまだ早い。。
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