忖度という言葉は、
他人の気持をおしはかること。
だそうだ。
忖度と言えば、令和の時代ではやや悪い言葉のように聞こえるが、元々は上記の意味であるからして、とても重要な行為である。
いろんな時、場所に忖度が必要だ。
私は昔から忖度する事ができない人間だった。
常に全力を尽くす事が相手に対する礼儀だと勘違いをしていた、例えるなら、
麻雀の初心者であろうとも全力をもって麻雀に取り組むし、
ゲームの初心者であろうとも全力をもってボコボコにした、
そして、この行為は、
相手の気持ちをおしはかった上で、全力という選択をしていた、どういう事かというと、
私は麻雀で手を抜かれるのが嫌いなために、初心者にも全力であたる、ゲームも同じで、手加減をされる事はあまり好きではない、と思い込んでいる。
自分の主義を他人に持ち込んで、忖度をしていたわけだ。
当然ながら、この行為は相手の気持ちなどはまったく推し量れていない。
なぜなら、人はそれぞれ違うからだった。。
少し考えればわかる事だった、例えばスポーツの場合、バレーの初心者が経験者に全力でスパイクを打たれまくったとしたらどうだろうか。
まったく取れなくて、やる気をなくしてしまうし、楽しくとも何ともないだろう。
この観点が私にはすっかり抜け落ちていた、麻雀は運の要素が大きいから、ある程度初心者でも勝つことはできる、しかし、長く続けると必ず経験者が勝つ、これはまさに、バレーでいうところのスパイクを全力で打ち続けているようなものだった。
よくできたゲームとは何か?よき指導者とはどのような人か?それは
・達成可能な少し上の目標を設定し続けられる事
であるのはよく聞く話だ、であるならば、ある程度万人に受け入れられる方法というのは、常に全力で対応する事ではなく、相手が少しチャレンジできる程度で達成感を得られる程度を”忖度”する事だったのだ。
相手がやる気になる、楽しくなる方法を忖度する、これはまさに相手の気持ちをおしはかる事に他ならない。
全ての出来事は自分が引き起こす事だとするならば、何かを主催しても誰も集まらなくなっていくのは、まさに相手の気持ちに寄り添えていないからだ。
最初はみんな参加していたとしても、自分だけが満足しているだけで周りが満足していないならば、当然ながら周りは離れていく。
全ては周りの気持ちをおしはかれなかった自分の責任なのだ。
忖度するとは、政治家が金儲けの為や自分の保身のためだけに使う言葉ではない、一般の人であっても、人間関係を円滑に進める為には、忖度が必要なんだ。
私は、、、とある時からある麻雀の会で全力を出すのを辞めて忖度をするようになった。
周りがどう思うかはまだ分からないが、自分の中で新しい発見があった。
自分が常に前に出ない場合はどのような動きになるのか
誰かからの和了を見逃した後どのような動きになるのか
素直に降りた後どのような動きになるのか
これまでとは違った景色が見える事で学びが増えたのだ。
麻雀ごときですら新しい経験となるのだから、日常生活のいろんな場所で忖度してみてはいかがだろうか、心の持ちようも変わってくるかもしれない。
機嫌の悪そうな態度を取っていたら周りがどう思うか
人を待たせてしまったら相手がどう思うか
日常生活全てに忖度を導入すると、自分も周りも優しい世界になるはずだ。知らんけど・・・
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