約40年間誰かと一緒に暮らしてきたわけであるが、ひょんなことから(要するに離婚・・)独り暮らしをすることになって1年が経った。
自分にとって普通だったことが実は人によっては簡単じゃないこともあるようだ。
約40年間の共同生活において思った、気を付けた方が良い事を挙げてみよう。
とにかく人は思い通りにはならない
まず基本中の基本として、人は思い通りにはならない、どれだけ注意しようが何をしようが、人を変える事などはできないのである。
人を変えるのではない、自分を変えるのが一番手っ取り早く、イライラも募らなくてすむのである。
18年間住んだ実家は鬼のように物に溢れた家であった、外の世界を知らなかった為、机の上だろうが、なんだろうが、いたるところに物があふれる光景が普通だと思っていた、しかし、実家を出たとたん、そんな家ばかりではない事を知った。
今、変わらず実家は惨劇の舞台となっている、しかし、私が何を言っても無駄なのである、両親に片付けるという意識はない、全ては必要な物、という言葉で思考停止をしているのだ。
私が何を言っても無駄である、そう、血のつながった親族でも人は変えられない、ましてや他人を変える事などは不可能なのである。
ということで、人と暮らすという事は全て思い通りに行くわけではないという事を強く認識する事から始まるのである。
潔癖症、神経質ではやっていけない
ゴミ屋敷の実家から大学入学を期に脱出した私が次にたどり着いた場所は、さらにゴミだらけの学生寮という境遇を体験する事となる。
学生寮では6帖ほどの空間に先輩と2人部屋である。
私が最初に同室となった先輩はかなりのゲーマーであり、喫煙者であり、そして、麻雀部屋であった。
部屋のテレビは常にゲームが稼働しており(当時は延々とペルソナえをしていたような気がする・・・)、灰皿には吸い殻が大量に突き刺さり、麻雀時にはさらに吸い殻と空き缶が増え、徹夜マージャン明けには、かまどやで買ってきた弁当の食いカスがそこら中に散乱しているという状況である。
こんな状況で寝るのである、不思議なもので寝れるのである、なぜなら、麻雀明けでくたばっているからである笑
とまあ、こんな状況の部屋で寝起きしていた私である、何が言いたいかというとこんな状況では、
・潔癖症であったり
・神経質であったり
ではやっていけないのである、潔癖という世界からは程遠い空間であり、足の踏み場もない空間で神経質もクソもないのである。
誰かと一緒に暮らすとは、潔癖や神経質という性質とオサラバする必要があるのである。
この性質からオサラバ出来ない人は、、、誰かと一緒に暮らすのは無理だから辞めた方がよいのである。
毛の生えた心臓が必要だ
そんな大学生活を超えて、お次の体験は社宅という名のまたまた先輩との共同生活である。
2DKのアパートに会社の先輩と同居である。
この生活では先輩はかなりの労働時間であった為、すれ違い生活であった。
先輩は毎日深夜2時に帰ってきて、朝はフレックスで10時出社であった、私は普通の時間に出社し、帰宅して寝ていた為、ほとんど先輩を見る事はない。
休日は私はあまり家にいなかった為にほぼほぼ先輩と顔を合わす事のない共同生活を送る事となった。
この生活で私がとった行動は、家の事を何もしないという思い切った行動である、風呂掃除や洗面所の掃除やトイレ掃除などを全くしないというかなりふざけた生活をしたのである。
幸い同居の先輩はかなり良い人でそんな私に何も言わなかった、しかし、かなりブチ切れていただろうことは想像に難い。。
そんな私を支えたのが、毛の生えた心臓、気にしない心である、やってもらって当然という勘違い思考である。
時には、他人への迷惑も気にしない強い心が必要なのである。
・・・そして、その後元妻との生活に入っていくのであるが、、それはまた別の機会にしよう。
基本的に精神的な事になってしまった
上記のように、私の体験から共同生活の注意点を述べた、
・人は思い通りにならない事を強く認識し
・潔癖症、神経質という性質を捨て去り
・他人に迷惑をかける事をいとわない
という、なんとも精神的な内容になってしまった、しかし、これが現実であろう。
人と一緒に暮らすという事はある意味ストレスとの闘いである、アドラー心理学によれば人間の悩みは全て対人関係によるものだという。
その対人関係を共同生活という形で日々体験する事になるのである。
共同生活とは精神を強くもっていないとやっていけないのである。
この気持ちが持てない、決心がつかないという人は共同生活はやめておいた方がよいだろう、ろくなことにはならない。
大好きな人と同棲をするとしても同じである、そう、離婚をした私が言うのだから間違いない笑、いつまでも大好きでありつづけるわけではないのだから・・・
コメント