日本全国に限らず世界各地で似たような光景がある

 勤め先の出張で購買の担当者にくっついて数社を訪問した。

 そこにあるのは、相当な田舎にある工場で働いている人達の姿であった。

 私の勤める工場も田舎の工場である、ただ、見慣れてしまった為に特に思う事はなかったが、今回訪問した各工場も実は私の勤める工場と何もかわらないのではなかろうかと考え直す。

 毎日同じことを繰り返す彼らにも生活というものがあるのである。

 

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電子基板の実装会社

 コンビニも何もない道を走り、ふと現れる工場がある、我々の生産する商品の電子基板を作っていただいている工場である。

 実装の会社とは、とにかく設備産業である、マウンターとリフロー炉、検査は画像測定機械、とにかく機械である。

 機械にいかに間違いのないように電子部品をセットし、しっかり検出できるように画像検査機の設定を決める、中国であろうが、カンボジアであろうが、やっている事は同じである。

 高密度化や小型化が進んでいるが、これらも全ては設備できまるのであろう、設備で決まるという事は巨額の設備投資が必要ということである。

 こうなると中国などの巨大資本の会社に太刀打ちする為にはどうするのか?少量多品種という道をとるしかない。

 というのが今回訪問した田舎の工場で起きている事であり、私の勤める工場でも同じである。

 働いている人達は地元の人達、若者もいれば年寄もいる、地元である程度の給与を得て、平凡に生きられればよい、という感じであろう、私と何も変わらない、このような風景が様々な場所で繰り広げられているのである。

 管理者の一人は片道2時間半かけて車で通勤してくるらしい、、とんでもない時間のロスであるが、それでも田舎には住みたくないということだろうか、それにしても1日5時間を通勤に費やすとはどういう気持ちなのであろう。

 その人はお酒を飲むとかなり暴れだすらしい、そりゃ5時間も通勤に使ってたらおかしくもなるだろうに。。

 

ばねの会社

 1時間ほど移動しバネの会社へ、人口8万人ほどの地方都市にある会社である。

 数百種類のバネを毎月作るという、バネも設備産業である、針金を機械で曲げていくとバネになるのであるが、その設備は一台1000万円ほど、設備を買って、材料を買ってくればばねを作って売れる、とその会社の人は言っていた。

 先の電子基板の実装会社の設備は個人で買えるような物ではない、費用もさることながら場所も広大である為に個人でできるものではない。

 バネであれば設備が置けるスペースがあれば(自宅の倉庫レベル)個人でもできるという事で、小さな会社も沢山あるそうだ。

 とはいえ、話を聞くと設備の調整は職人技が必要であり、一人前になるには2年ほどかかるという、実は設備産業でななくて職人系の仕事なのだそうだ。

 営業の担当者や部長はとにかくよくしゃべる人達でパワフルな方であった、地方都市の工場でありながらも日本全国を飛び回り営業をしまくっているようである。

 食事に連れて行ってもらったが、大いに飲み、その後はスナックに行って、若い女の子とおおいにしゃべる、元気な叔父様であった。

 地方都市であっても、スナックには若い女の子がいるし、美味しい居酒屋もある。

 日本全国どこであっても同じような風景が繰り広げられているのである、どこへ行っても同じように毎日同じ仕事をして給与を得、生活をしているのである。

 

生板の製造会社

 その後カーナビの指示する道を通ると、車一台しか通れないような山道を通ってたどり着いた場所は生板(電子基板の板)の製造会社である。

 本社は京都市内であるが、京都府内の田舎に工場を作りたいということで、とある自治体が山を削って整地し企業の誘致を行っていたからこの地に工場を建てたのだという。

 かなりの田舎である、ただ、その工場にあるのは、材料に穴をあけ、フィルムを貼り付け、銅箔を薄利し、銅線のパターンを機械で画像検査し、レジスト(銅線のカバー)をかけ、再度不要部分を薄利し、表示を印刷し、電気検査をし、梱包するという工程である。

 そこにあるのはまたまた巨大な設備達である、年季は入っているが、とても個人で所有する事はできない巨大な設備が並んでいる。

 ところ狭しと詰められた設備の間に人間が配置され作業を行っている、これもまた、私の勤める会社と変わらないのであろう。

 ただ、見慣れない景色の為か、なんというか、なんてつまらなそうな仕事をしているのだろうと感じてしまう、すごい田舎で同じような作業を毎日続ける。

 違和感を感じるのだが、この違和感は恐らく見慣れないからであって、私の勤める会社も同じことをしているはずである、田舎に建つ工場の中で同じように毎日同じ事をしている人達がいる。

 彼ら彼女らには家庭があり、家族がある、子供の教育の為に働き、家のローンの為に働き、飯を食うために働いている。

 これまた場所と設備と作業と作る商品が違うだけでやっている事は何も変わらないのである。

 

日本に限らず、世界どこに行っても似たような事になっている

 私の勤める会社にも契約社員の方がいる、彼女達は安い給料で毎日同じ作業を行い、時間になったら帰っていく、家ではご飯を作り、子供の世話をする。

 休みにはなけなしの給料から娯楽費を捻出する、そして休みが終わればまた毎日同じことを繰り返す生活を繰り返す。

 今回の3社で働く人達もまったく同じであろう、住んでいる場所が違ったり、住んでいる都市の規模が違うだけである。

 そして、これは日本だけの事ではない、カンボジアの工場においても同じである、彼女らは毎日同じ作業を繰り返し、トラックの荷台で運ばれ、家族に給料を届けるのである。

 これが資本主義というものなのであろう、商品を作り出す設備を持つ資本家がいて、その設備を動かして商品を作る労働者がいる。

 資本家は設備等の資本を使ってさらに資本を生み出す、労働者は自身の労働力を使って給与を得、ささやかな時間で失った労働力を回復させ、また労働力を使うために設備の前にやってくる。

 さまざまな業者を回って感じる違和感の正体はなんなのか?恐らくはこの残酷なまでの資本主義の原則を目の当たりにし、自分もその中の一人であるという事をずっと考えていたからだろうか。

 それとも日々生み出されていく商品が、本当に必要な物であるのかどうか?という疑問なのだろうか。

 必要であるから商品として売れ、お金というものに変換されて、それが労働者へもいきわたり、日々の生活や休日のささやかな楽しみに変わっていく。

 そしてまた明日も同じ事が繰り返される。

 このループに終わりがあるのだろうかとふと思う、永遠などはないはずである、どこかで必ず破綻するはずである。

 それでも走り続けなければならないのが資本主義というものなのか、劇的なイノベーションが起きるのか、違和感を感じながら来週も中国の工場へ出張するのである。。

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