図書館で勉強する人達を送迎する親達、いつからそんなに過保護になった

とある祝日、住んでいる部屋が寒すぎる為に今日も図書館に避難をしにきた。

時間は図書館開館から15分過ぎた頃、おかしい、まだ開館して15分しか経っていないのに席がほぼ埋まっている、どういうことか?

そして、ロータリーに入っていく車も大量に存在し、その都度若者が車から降りて図書館へ向かっていく。

朝早くから親をタクシー代わりにして子どもたちが図書館へ押し寄せているのである。

しかし、この行為こそが、世の中の効率化へ寄与しているのかもしれない。

 

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いつから親は送迎タクシーになった

親が子供を車で送迎する光景は珍しいものではない、私はたまに電車で通勤することがあるのであるが、朝の駅などは学生を送迎する大量の車が存在する。

いつから学生はそんなにVIPになったのか。

私が学生の頃(20年以上前・・・)は雪が降ろうが積もろうが関係なく6kmの道のりを自転車で通っていたものだ。

たしかに、大量の雪が積もった日などは親が学校まで送ってくれた事がある、しかし、私の中では車で送迎されるというのは恥以外の何物でもなかった。

はるか学校の手前で車から降りて、まさか親に途中まで送ってもらったなどという情けない行為は行っていない、というような素振りで学校へ向かったものだ。

それが今や、さぞ当然のように子供達は親をタクシー代わりに使う、そして、親もなんの疑問もなく子供のタクシー運転手になりさがる。

なんとも嘆かわしい状態だ。

 

平日、休日関係なく送迎する

確かに私には子供がいない、もし子供ができたら嬉しそうに送迎するかもしれない、ただ、度が過ぎないだろうか。

高校生を平日朝に駅まで送迎する、この時点で意味不明である、駅ぐらいまで自分で行けよと思わないのだろうか。

自転車を用いれば5kmなんて15分程度だろう、そのくらいは自分で行けばいい。

また昔の話になるが、私が通っていた中学校や高校では片道10km以上ある道のりを自転車でやってくる奴らが沢山いた、彼らはさも当然のように自転車で通学していた。

自分で行かせればいいのだ。

そして、平日の朝だけに送迎はとどまらない、休日は図書館に朝一で送り届ける、それだけではない、平日の夜であっても習い事にせっせと親達は子供を送り届けるのである。

それでいて親達は嘆く、忙しい、と、忙しくしているのは自分のせいだということに気付いていない。

考えようによっては人に頼れる人間を作っているのかもしれない

私は人に頼るのが苦手だし、人にお願いするのも苦手だ、育った環境のせいにしたくはないが、上記のように雪が降ろうが積もろうが自力で自転車で学校まで行くのがあたりまえ、そして、何か物をねだっても簡単には買ってもらえない環境だった。

そのような環境であれば、自分でなんとかするしかない、と日頃から考えるようになっていく、その結果今も人に頼ることが苦手なのかもしれない。

一方で今の若者は毎日の通学という非常にめんどくさい行為を親に頼っている、そして、自分がやりたいはずであろう習い事であっても親の送迎に頼り切っている。

良い方に考えれば、これは人に頼れる人間が沢山量産される、ということではないだろうか、楽な方法、効率的な方法を取ることを優先する人間を量産しているとは言えないか。

若い社員は驚くほどに効率的

仕事をしているとよく聞く言葉、最近の若いもんは、、という言葉であるが、これは私にとっては良い意味で考えている。

最近の若いもんは非常に効率的なのである、無駄な事を一切排除し、必要な事だけをやろうとする、そして、自分がよりも優れている人がいるのならば、その人や業者に仕事をすぐに投げる。

非常に効率的なのである、私としては非常に有能に感じている。

しかし、年寄はそうは捉えない、とにかく楽をしようとすると捉えて批判をする。

このような状況において、今の私は常に思っている。

”最早年寄りから学ぶことはあまりなく、若者から学ぶことのほうが多い”

と、アナログ的な事は年寄りから学ぶが、デジタル的な事や効率化に関しては若者から学ぶことの方が多い時代なのである。

それが、親の送迎を甘んじて受け入れる行為から来ているのかどうかは知らんが、寒くとも自転車をこいて苦しんで耐え忍ぶ、などという時代ではなくなったのかもしれない、ということを図書館に送迎されてくる若者を見て思った今日このごろである。

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