自分で出来る事は自分でやってみる。
このコンセプトで生きているワタクシ、ちょっとした賃貸物件を持っているので、入居者の退去時のクリーニングを自分でやってみている。
非常にシンドイ労働で、他人の汚した便器を一生懸命掃除し、、、まったく掃除しない入居者に辟易するわけだけれど、辛い労働を経て得るものは、
•ボロい賃貸物件への愛着
というなんともよくわからない感情だったりする。
人は自分が手塩にかけて育てたものや、労働力を投入して構築したものには愛着という感情が生まれる。
愛着というと、
愛着は慣れ親しんだ物事に深く心を引かれ、離れがたく感じる事を言う
とウィキペディアにはあるから、まあいいようにとることも出来るけれど、これが行き過ぎると、
執着であったり、依存、になるから大変だ。
私のクリーニングをした物件で言うと…自分の労働を投入して苦労したからと言ってずっと持ち続ける事になるが、残念ながらボロ物件には入居者は簡単にはつかない。
誰も住まないという事は、管理費等の持ち出しになり、毎月損をしていく事となって愛着のある物件が負債になっていくという自体を招く事もある。
負債になってしまった場合は…これはもう執着や依存という悪いレベルのお話しであるからして、何処かのタイミングで見切りをつけなければいけない訳だ。
この見極めは非常に難しい
男女の恋愛も同じだろう、長い間不倫関係を続けて不毛な恋愛を続けていたとしても、愛着が執着•依存に変わって関係を終わらせる事ができなかったり。
長い間続けていた過去の恋愛をいつまでも忘れられなかったり。
自分でやる事と恋愛は違うか、、となると、私で言うと、3年間続けたブログをいつまで経っても消せないというのも執着だ。
ブログはタダで出来るものもあるが、サーバーを借りて独自ドメインを取って運用すると多少お金がかかる(といっても月1000円くらい)
まったくお金を生み出さないブログにお金をかけてもしょうがないから、さっさと見切りをつけて消すべきだけれど、、3年間の労働はなかなか自分を納得させてくれない。
この根底にあるのが、
•好きでやってたかどうか
だろうと思う、自分の好きでやる分には趣味としてやるからお金はたいした問題じゃなくなる、お金をもとめてしまった瞬間に費用対効果という現実を突きつけられて、計算が始まってしまうわけだ。
自分の労働力をふんだんに投入する時は頭の片隅に置いておく必要がある、
•この労働は趣味なのか
それとも
•お金目的なのか
それとも
•誰かの為なのか
ということを…
結局のところは、自分を納得させられればいいわけで、私の納得方法は、
・ただの趣味、及び暇つぶし
という事で落ち着ける事にする、趣味として何年も続けている麻雀が一体なんの役に立ったかというと、残念ながら何の役にもたたない。
小学校から毎週読み続けているはじめの一歩がなんの役に立っているかというと、脳みそのメモリーを食いつぶしているだけで、役に立たないどころか、考えようによっては邪魔にすらなっている。
これらの無駄を納得させるには、好きだから、趣味なんだからしょうがないでしょ、とするしかないのだ。。。
コメント