朝7:45から夜21:45分、14時間の内2時間休憩で12時間、中国の工場で物を作り続ける作業者、人数は約100人。
ずっと同じ作業を行っている人間もいる。
私は何をしているのかというと、特に何もしていない、とりあえずの人柱といったところだろうか。
12時間働き続ける100人の中国人作業者を見ながら、自分の事を考えた。
彼らの未来は明るいのか
作業者は基本的には若い、20代の者が大半であろう。
20代の頃の私は何をしていたかと考える、そういえば私も工場に勤務していた、そして、製品を検査していた。
時にはお客さんの工場へ毎週出向き、あてがわれた部屋で毎日製造工程から送られてくる不良品を検査して、所定のファイルに記録をしていた。
そして、時には不良のLotがあれば膨大なパレットから、特定の個装箱(段ボール)を抜き取る、という作業を行っていた。
思い返すに、、、100人の中国人作業者と何が違うというのか。
私も毎日夜22時頃まで、時には深夜3時まで作業を行っていたのだ。
その当時に何を思っていただろうか、将来の事など考えていただろうか、当時は結婚していたので、残業代も出るし貯蓄の足しになるからまあいいや、くらいにしか思っていなかったのだろう。
深夜まで毎日働く事に特に違和感はなかった、むしろ残業代が出てラッキーくらいにしか思っていなかったと思う。
そう考えると、もしかしたら、目の前の100名の中国人作業者もかつての私と同じように、残業代がもらえるからまあいいやと思っているのかもしれない。
当時の貯蓄は何に消えたのか
当時の残業代は貯蓄に回ったのだと思うが、その貯蓄が何に消えたのかは覚えていない、定期的な車購入代金に消えたのか、それとも結婚式代金で消えてなくなった貯蓄の補填に回ったのか、まったく覚えていない。
このように、目的なく貯蓄をしていたのだと思われる、というか、当時は自分でお金の管理をしていなかったのだ、元妻に通帳を預け、給与明細を見る事もなく、毎月なんとなく生きていたのである。
100名の中国人作業者達がいくらもらっているかはわからない、月8万円程度だとすれば、今や物価の上がってしまった中国では裕福とは言えない、ほとんど貯蓄をする事などはできないであろう。
とすれば、彼らは特に何も起きない限り、延々と長時間労働を強いられ、生活が変わる事はないのかもしれない。
自分で何か行動を起こさない限りは変わる事はないのである、しかし、若い彼らには疑問を感じる事もないのだろう、20代の頃の私と同じように。
時代が変われど、変わらない層もいる
AIの時代だとか、自動化・機械化の時代だとか言われるが、目の前の作業者達を見ていると20年前の私と何も変わらないように思える。
結局は人力で無理やりに物を作り上げるのである、20年前も、40年前もそのことに変わりがない。
要するに労働者という階層は変わらずに存在し続けるのである。
今いる100名の中から、今度は今の私のように100名の作業者を地球のどこか僻地で眺める人がいるのかもしれない。
そして20年後にまた同じ光景を繰り返す、多少はサイクル年数は変わるだろうが、延々と物を作り続ける階層は存在し続けるのである。
このことは日本でも同じである、田舎の工場では延々と同じ事をし続ける作業者など今だに山のようにいる。
この状態から抜け出すにはどうすればよいのか。
現状を疑う
20年前の私は当時の現状に1ミリも疑いを抱いていなかった、適度に、時には激しく残業し、その貯蓄を使って車を買ったり、家を買ったり、旅行へ行ったりして、貯蓄を消費していた。
その時はそうする事が正しいと信じて疑わなかったのである。
なぜ信じて疑わなかったのか? 知識がなかったのである。
現状を打破するには、もっと知識を付ける為に勉強をするしかないのである、自由に生きている人がいるという事を認識する必要があるのである。
私の場合はこのことに気づくのが遅かった、気づいたときにはアラフォーである、気づいた当時は結婚をしていて、お金を自由に使う事などできない立場であった。
それがどうだ、今や離婚をして独りになったために、自分の為だけにお金を使う事ができる立場となったのである。
そんな今は貯蓄をする目的は明確である。
全ては様々な情報に触れて知識を付ける、学習をするという事から始まっているのである、何歳となっても勉強をする必要があるのである。
いつまでたっても学び続ける
学生で勉強は終わりと認識している人は多いであろう、私もかつてはそうだったし、中国人労働者達も同じであろう。
今ならはっきりと分かる、人生は勉強し続けなければならないという事に。
このことに気付かない限りは、延々と人に使われ続ける労働者という階層で生きていく事を強いられるのである。
理解した上で労働者という階層を選ぶのであればよいと思う、しかし、何も知らずに労働者階級という選択肢しかないと認識する事は今となっては寂しいように感じる。
思えば私の父親は自分で一人しかいない会社を経営していた、そんな父親は今でも何か新しい事を勉強している。
しかし私にはこの世の現実を伝える事はしなかった、理由はわからない。
今の私はできるだけ多くの人にこの世の現実、いわゆる資本主義の現実というものを伝えていきたいと思う。
そんな私はいまだにただの労働者である、ただ、現実を知れたことで少しでも労働者からの脱却をはかろうと行動を起こせている。
私が言えた立場ではないが、少しでも多くの人が行動を起こせる事を祈っている。
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